あの日、私は部長に抱かれなかった。
泣きやまない私の頭をずっと撫でてくれただけだった。
どんどんと嵐に惹かれていく私の心を、誰よりも早く感じたのは、部長だ
った気がする。
心の持ち主である私よりも早く、誰よりも早く、私の心の変化に気付い
てくれた人。
いつも家族のモノだと思っていた彼だけど、彼は彼なりにちゃんと私を見
てくれていたんだ。
凄く苦しい思いもした、涙だっていっぱい流した。
でも、凄く幸せな5年間だったと思う。
奥さんのことを考えると、ホントにごめんなさいと言わなきゃいけないけ
れど、でも、私は部長と恋ができて幸せだった。
こんな終わり方しかできなかったけど、最後まで幼い私しか見せられなか
ったけれど、それでも、私は成長したと思うんだ。
正直、次の恋に踏み込むのは恐い。
相手はアイドルだし、若いし……。
だけど、次、嵐に会う時は、ちゃんと告白したい。
部長と別れたと。
嵐を好きだと。
自分一人で勝手にそう決めていた私は空振りしてしまった。
嵐からの連絡が途絶えた。
メールも電話もない。
以前にも、こんな状態になったけど、でも1週間くらいしたら、嵐は何も
なかったような顔して部屋に現れた。
でも、今回は一ヶ月くらい音沙汰がない。
最初は仕事が忙しいのかな?
なんて思っていたけど……違うよね。
私に飽きたのかな?
もともと付き合ってるわけでもないし、愛してるって言われたけれど、最
初から嵐は簡単に愛してるを口にしてたような人だよね。
そっか、信じちゃってたよ、私。
嵐の愛してるって言葉を、信じてたよ。
なんでだろ、自惚れてた。
どこにそんな自信があったんだろ?
不倫してるような女に、天下のアイドルが本気で相手してくれてるだなん
て、笑い話にもならないよ。
ねぇ、嵐。
それでも、私はあなたに惹かれてしまったの。
簡単な出会いだった。
軽い始まりだった。
でも、私はあなたを好きになってしまった。
何だか苦しいよ。
淋しくて、嵐に会いたい想いが膨らんで、こんなに切ない思いがするなん
てね。
気が付いたら、嵐が心にたくさん住み着いていた。
でも、もう会えない……んだね。
あなたはトップアイドル。
私は平凡なOL。
住む世界が違いすぎる。
私がいくら会いたいと切望しても、簡単に会える相手なんかじゃない。
コンサートに行けば、嵐を見ることはできても、それは会えるとは違う。
二人でお喋りしたことも、一緒にお酒を飲んだことも、抱き合ったことさ
えも、まるで夢のような確率だったんだね。
芸能人と一般人。
この世界の違いは、すごく大きいね。
私からあなたに会うことは、不可能、、、なんだね。
だけど、携帯のアドレスはまだ残ってるよ。
毎日アドレスを開いて、メールを送りたい、電話をかけたいって心境にか
られてしまう。
迷惑、だよね?
遊びで抱いた女に、本気になられても、うざいだけだよね。
あなたにとって、私はどんな存在だったの?それすらも、恐くて聞けない。
電話も、拒否られてるかもしれないのが、恐い。
恋をして、すごく臆病になっている。
好きだと気付けば気付くほど、あなたにコンタクトとるのが恐くなってい
くんだ。
ねぇ、あなたは今私を思い出してくれたりする?
もう、一ヶ月も会ってないんだよ。
一ヶ月も声を聞いていないんだよ。
会えない時間が、確実に彼への恋心を募らせていた。
何度も開いてはためらわれる携帯のアドレス。
嵐の声が聞きたい。
メールでもいい。
電波だけでも、彼と繋がっていたい。
だけど、恐い。
どうしようもなく、恐い。
かけたい、恐い。
送りたい、恐い。
こんな事を繰り返してたら、さらに2週間が過ぎてしまった。
ふんぎりがつかない自分に嫌気がさす。
いい加減、キリをつけよう。
じゃないと、仕事すらできなくなりそうで、本気でやばい。
ここ最近、私は仕事のミスが多い。
カバンに入っている携帯が気になって気になって、休憩のたびに携帯とに
らめっこをしていた。
でも、もうそれも今日でおしまいにしよう。
いくら待っても、嵐から連絡が来ることはない。
だったら、私からするしかないんだよ。
勇気を出して、嵐のページから震える指で発信ボタンを押した。
コール音がする。
1コール。
ドキドキと心臓が早くなる。
2コール。
何を喋ればいいの?
3コール。
もうすぐ嵐の声が聞ける?
4コール。
出ない???
5コール。
何も考えずに、終了ボタンを押した。
電話に出ないのは、今仕事中だから?
それとも、私が相手だから?
不安要素だけがグルグルと思考回路を満たしていく。
情けない。
年下のかわいい男の子に本気になってしまった、バカな女。
わかっている。
でも、プライドなんて言ってられないくらいに、私は嵐に恋してしまって
いた。
今まで経験した恋愛スキルなんて、全然役に立たない。
どんな恋だとしても、新しい恋は、過去のどんなモノよりも新鮮で、そし
て残酷なんだ。
愛しくて愛しくて、手を伸ばしたいのに、届かないもどかしさ。
あきらめなきゃ、いけないのかな?
学生みたいに、テレビや雑誌の中の嵐にときめける程、私は若くない。
もう、リアルな温もりがないと安心できないの。
よろこべないの。
ねぇ、嵐、私、玉砕覚悟で、あなたに伝えたい想いがあるんだ。
お願い、それだけでも聞いて?
メールを送った。
『ごめん、いきなりメールして。
会いたいんだけど無理かな?
無理なら電話でもいいんだけど、時間空いたら連絡くれない?』
このメールも無視されたら、今度こそもう、ホントに諦めるよ。
お願い、最後の悪あがきを認めて―――――。
祈りを込めて、送信ボタンを押した。
電波に乗って、あなたに私の言葉が届く。
それだけで、うれしいんだ。
それすらが、幸せを感じるんだ。
もう、完全に嵐に恋をしているよ、私。
早く、一秒でも早くこの想いをあなたに伝えたい。
数時間後に、待っていた人からの電話が鳴った。
心臓がドクンと脈打つ。
ボタンを押す指に、力が入らない。
出なきゃ。
声が聞きたい。そう切実に願っていたのに、なのに、手が震えちゃうの。
もう一方の手で、指を支えるようにして通話ボタンを押した。
『電話出れなくてごめん、仕事中だったんだよ』
ずっと聞きたくて聞きたくて仕方がなかった愛しい人の声。
優しい低い声。
だけど、いつもより元気がないように感じる。
それは、久しぶりに聞く声だから、かな?
「そっか、忙しい時にごめんね?」
『いいよ、オレも里緒に話あるんだ。
今日はもう終わりだから、今から行っていい?』
違う。
久しぶりだからなんかじゃない。
嵐の声は明らかにトーンが暗い。
何?
話って、何?
私が聞きたくないような、事なの?
だから、そんな暗い声なの?
すごく聞きたいけど、恐くて聞けない。
そして、嵐がずっと連絡をくれなかったのも、話題の内容が理由なんだね。
どうして、そんなに悲しそうな声で喋るの?
「うん」
たくさん質問したいのに、そんなの全部「うん」の二文字にかき消されて
しまった。
私の返事を聞いて、電話を切った嵐。
あなたは今どんな顔をしているの?
やっぱり電波なんか媒体を通さずに、直接あなたと会話がしたいよ。
顔を見て、直に声が聞きたい。
たとえ、それがどんなに悲しい言葉でも―――――。
彼が来るまで時間は、すごく長く感じた。
ホントは1時間くらいだったのかもしれない。
でも、私には会えなかった一ヶ月と同じくらい、呼吸の苦しい時間だった。
「久しぶり」
玄関でブーツを脱ぐ背中が、なつかしい匂いを放っている。
「相変わらずかっこいいね」
「そ?」
玄関から立ち上がり、室内に入った嵐は、はにかんだ笑顔を見せた。
少し、照れた感じがかわいい。
「うん、やっぱりアイドルなんだね」
私と逢えない時間も、彼はルックスを保たなきゃいけない。
少しの体重の増減すら、影響してしまう顔や、服装のライン。
見られるって仕事をしてる彼にとっては、現状維持すらも大変だろう。
歳と共に、体も顔つきも変わって当たり前なのに、彼にはそれがほとんど
許されない。
「………」
嵐は、苦笑いで答えながら、ソファにくつろいだ。
だけど、醸し出す空気が全然くつろげていない。
心ココにあらずな状態で、目が泳いでいる。
「話って何?」
不安を抱えたまま、時間を過ごすより、早く終わらせた方がいいよね?
親切だと想って言ったセリフは、嵐の表情をさらに曇らせてしまった。
え?
こっちの心臓がえぐられるような、傷ついた犬のような表情。
どうしたの?
どうして、そんな悲しい顔をしているの?
「………オレ、さ」
言いにくそうに、重たい口を開いた嵐は、眉間に皺を寄せて、私から視線
を外した。
目の前にあるテーブルを睨むように、ジッと見つめて、ゆっくりと言葉を
探すように、唇を噛みしめている。
二人の間を不穏な空気が張りつめた。
「………」
嵐は、何を言おうとしているのだろう?
少しプクリとした形のいい唇に視線が集中する。
その唇は、次はどんな形で音を出すの?
「ごめん」
ソファから降りて、床に座るとペコリと頭を下げる嵐。
ごめんって、何が?
「よくわかんないんだけど、何か謝るようなことをしたの?」
私の質問に苦い表情をしてから、柔らかい髪に指を通してクシャクシャと
しながら、罰が悪そうに小さい声で、何かを喋った。
「―――――た」
「ん?ごめん、聞こえなかった」
そう言うと、今度は開き直ったのか、聞こえる声で、はっきりと。
「他の女抱いた」
「は?」
別に私たちは付き合ってるわけでもない。
だから、嵐が誰を抱こうが、他の女を抱こうが気にすることないのに。
「里緒の事愛してるとか言いながら、オレ違う女を抱いたんだ」
苦しそうに眉間に皺を寄せて、罪悪感いっぱいの瞳で見つめる嵐。
「……良かった、そんなことで」
私が抱えていた、不安が的中しなくてよかった。
そういうつもりの言葉だったのに、嵐はさらに顔を悲しみに染めた。
「やっぱり、どうでもいいんだ……」
つぶやくほどに、小さな声。
だから私は慌てて自分の言葉を取り消した。
「どうでもいいとか、そんなんじゃないよ。
ただ、もう嵐に飽きられちゃったのかな?とか不安になってたから、全然
違うみたいで良かったって意味」
そりゃ20代前半で、若い嵐に一ヶ月も禁欲しろなんて無理でしょ。
しかもこんなに素敵な男なのに、女がほうっておくわけがないじゃない。
「ちがっっ、オレ里緒に飽きたりなんかしてねぇっっ、てか、今でも好き
って気持ちは全然変わらないんだ。
ただ、ほら、里緒には好きなヤツがいるだろ?
だから、なんか淋しくなって、その、ホントにごめん!
里緒に不安を与えたかったわけじゃねぇよ。
本気で今でも大好きなんだ」
一生懸命に言い訳をしている嵐が、すごくかわいく見えた。
別に、誰を抱いたとか、抱かなかったとか、そんなの些細な問題なんだよ。
私たちの関係はまだ始まってないんだもん、浮気にもならないのに、それ
でも必死で謝る嵐の気持ちがうれしかった。
私、自惚れてもいいかな?
「私、も、だよ」
ちゃんと好きと言いたいのに、なんだか恥ずかしくて言葉にできない。
何をいまさら?
いくつだよ、私。
初恋じゃあるまいし。
そう、茶化す自分がいるけれど、でも顔まで赤くなってきてるし、本気で
照れてしまう。
こう、ちゃんと告白するのって、何年ぶり?
学生時代ぶり、かな?
「え?」
ほら、きちんと伝えないと、嵐が意味わからないって顔をしてるよ。
大丈夫。
言える。
うん、大丈夫。
自分に言い聞かせて、私は今度はちゃんと告白をした。
「私も、嵐が好き」
心臓がありえない速さで伸縮している。
「は?」
ありったけの勇気を持って告白したってのに、当の本人である嵐はポカン
と口を開けて、私を見つめている。
え?
まだ、言わなくちゃいけないの?
「だから、私も嵐が好き!
何度も言わせないでよ」
「え?」
いや、嵐くん?
本気でわかってないの?
そう思って、彼の顔を見ると、嵐もまた顔を赤くしてニヤリと笑っていた。
わざと、聞き返したな、この野郎。
そう想うのに、私の顔も彼につられるように、頬が上がってにやけてしま
う。
「嵐が大好きだよ。
すっごく好き。
気が付いたら、いつも心には嵐がいたの。
不倫してたのに、苦しい恋をしてたのに、嵐の事を考えるとすごく温かい
気持ちになったの。
気が付いたら部長と会ってるのに、嵐の事ばかり考えてた。
そしたら、もう終わりにしなきゃって……。
もうね、部長とは終わったよ。
でも、嵐には会えなくて……。
逢えないだけで、淋しくて泣きそうだった。
もう、飽きられれたのかな?って思うと苦しくなった。
心は嵐でいっぱいだよ」
ちゃんと伝えたい。
いつもストレートに心をぶつけてくれる嵐だからこそ、私もきちんと想い
を言葉にして届けたい。
「やったーーーーーーーーっっっっ」
夜中に、大きな声を出して私をギュッと抱きしめる嵐。
「マジ?
ね、ホントのホントに?
里緒がオレを好きって、夢とかじゃねぇよな?」
抱きしめる腕に力を入れて、何度も私の顔をのぞき込む嵐に、さらに愛情
を感じた。
「ホントだよ、私は嵐が好き」
一ヶ月ちょっと連絡がないだけで、私は不安になってしまったけれど、嵐
はもっと辛い思いをしてたんだよね?
私が部長と不倫してる間、ずっと嵐は不安だったよね?
挙げ句に部長からのキスマークや、部長との約束を優先させた私を、どん
な思いで見つめてくれていたの?
たくさん悲しい思いをさせてごめんね。
こんなんじゃ、全然償いにならないだろうけど、でもあなたがホントだと
自覚できるまで、私はずっと”好き”をあなたに伝える。
「ぜってーオレの好きのがでかいけどな」
変なところで負けず嫌いな嵐。
「そんなことないよ、私もすごく嵐が好きだもん」
「すっげぇうれしい。
オレの彼女になってくれんだよな?」
嵐の無邪気な言葉に私はためらいながら頷いた。
だって、彼女とか恋人とか、そんな関係を望んでいたわけじゃなかったか
ら。
ただ、この気持ちを伝えたかっただけ。
でも、いい大人な二人が両思いで、恋人にならないってのもおかしいよね。
アイドルの彼女、なんて私なれるのかな?
「何か、すごく不安だな。
ファンの子たちにばれないようにしなきゃいけないね」
きっと、たくさん反対されるんだろうな。
ものすごい障害がこれから出てくるんだろう。
その全てを私は嵐を好きって想い一つで立ち向かっていかなきゃいけない。
そんな覚悟、あるの?
かなり不安だけど、でも、もう嵐と逢えなくなるのは嫌だ。
もっとたくさん嵐と逢いたい。
嵐に触れたい。
嵐と会話したい。
「オレが守るよ、里緒は何も不安にならなくていいくらい、オレが守って
あげるから、普通にしてろよ。
別にファンにばれてもオレは構わないし」
ファンにバレても構わないって………、アイドルの自覚あるんだろうか
?
「ファンにバレちゃ、ダメでしょ」
やっぱりアイドルって人気商売してるのに、彼女の存在なんてまずいよ。
そんな心配をしているのに、嵐はすごくキレイにアイドルスマイルを見せ
てうなずいた。
「でも大丈夫」
何がどう、大丈夫なんだ?
どこからそんな自信が出てくるんだ?
「いや……」
言葉が詰まってしまった。
何を言ったらいいのかわらかない。
嵐は、今までどんな恋愛をしてきたんだろう?
彼女の存在を隠すことなく、恋愛をしてきたんだろうか?
私はクラッシュというか、BEEN事務所に興味がなかったから、彼の過去に
ついて何も知らない。
ファンがどんな人たちなのかも。
だいたいの想像で、きっと女子中高生に人気なんだろうなってくらいだ。
あ、もしかしたら小学生にも?
若い女の子たちに夢を与える仕事。
キラキラとした世界を見せてくれるアイドル。
そこに恋人だなんて、リアルは必用ないんじゃないだろうか?
多分、見つかれば事務所や、周りに反対される。
嵐の周りだけじゃない、きっと私の周りも心配するだろう。
不倫とはまた違う、秘密の恋。
誰にも相談することもできないのかもしれない。
けど、平気。
私は秘密なんて慣れてる。
でも、嵐は?
こんなに純粋な彼は、秘密に慣れているのだろうか?
人に言えない関係を、継続することが、彼にはできるのだろうか?
少し不安だけど、でも今はこの嵐の笑顔を信じてみよう。
やっと、両思いになれたんだもん。
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